依佐美送信所が務めた役割
依佐美送信所は、1929年に運用が開始されて以来、65年の長きにわたり通信施設として活躍。戦前・戦後それぞれの時代に重要な役割を果たしてきました。
ヨーロッパとの通信
依佐美送信所は日本無線電信株式会社(後の国際電気通信株式会社)により、欧州各国との通商・外交の通信施設として設立され、1929年、ポーランドのワルシャワを皮切りに、ベルリン、ロンドン、パリなど欧州との通信を開始しました。
この送信所の対となったのが、現在の四日市市(当時の三重県三重郡海蔵村)に建設された受信所で、共に名古屋電信局との間の連絡線を介して受送信していました。
建設開始当時は、遠距離通信には長波・大電力が不可欠であると考えられており、依佐美送信所は大電力の長波無線電信所として設計されていました。
ところが、運用を開始した頃には小電力で通信可能な短波無線が開発され、海外通信も短波無線が主流となったため、長波無線は短波無線の補佐役となったのです。
依佐美送信所でも短波設備を増築し、長波・短波の欧州向け無線通信の拠点として活躍しました。
旧日本海軍との通信
短波無線が主流となった中、長波が水中に浸透する特性が発見され、各国が潜水艦との通信に長波無線を使うようになりました。
1941年、依佐美送信所は対潜水艦の通信拠点として日本海軍の管轄下に置かれました。
同年12月2日には、真珠湾の奇襲攻撃開始の暗号「『新高山登レ一二〇八』(ヒトフタマルハチ)」が、依佐美送信所から先遣部隊に向けて送られ、太平洋戦争が開戦されました。
アメリカ軍による通信
1947年、第二次世界大戦の終結により、GHQ(連合軍総司令部)の指示で国際電気通信株式会社の解散と依佐美送信所の閉鎖が決まりました。
ところが、1950年に駐日アメリカ海軍が依佐美送信所の長波を利用することになり、アメリカ海軍が依佐美送信所の施設を接収することになりました。同年に依佐美送信所の保守・管理をする国際電気通信の後身企業として電気興業株式会社を設立。アメリカ海軍通信隊員による送信施設の運転から、電気興業へ保守運転が委託されました。
それから長波送信が停止される1993年まで現役で活躍し続けました。翌年、日本に返還された後、1995年には長年にわたる役目を終えアンテナ線を撤去。1997年、一部の設備を残し鉄塔も撤去されました。