重要な情報の発信地として
明治から大正にかけて日本は諸外国との通商、外交が盛んになるにつれて、大量の情報のスピーディなやりとりが必要になりました。当時、海底に敷設した海底ケーブルによる有線電信が中心でしたが、やがて長波を利用した無線通信が実用化されはじめ、大正時代後半になると対米国無線は福島県に送信所が建設されました。日本政府は愛知県の依佐美(現刈谷市)に送信所を設けることを決定し、1929年(昭和4年)に完成したのです。
ドイツから高周波発電機などの機械類を輸入し、通信に必要な250mアンテナ鉄塔などは全て国産で対応。ドイツ・ベルリンを中心にヨーロッパ各地と結ばれたのです。やがて国際通信は短波が中心となりますが、第二世界大戦が始まった頃、潜水艦への通信には長波が有利で日本海軍のもと潜水艦、艦艇に向けて数多くの指令が発信されたのです。中でも、真珠湾攻撃時の「ニイタカヤマノボレ」という暗号電報を潜水艦に送ったのは依佐美と言われています。
産業遺産として保存へ
戦後は機能停止、解体の予定でしたが、1950年(昭和25年)に米軍が潜水艦への通信のために接収し、以後1994年(平成6年)に日本に返還されるまで、軍事通信施設として利用されました。1989年には電気通信学会などが対欧無線の発祥の地として石碑を建立し、返還後は電気や通信分野の方をはじめ、地元関係者などから保存運動が盛んになったのです。
1996年には産業考古学会から推薦産業遺産に認定されました。関係者により送信所建物、鉄塔などの保存がさらに強く訴えられたのですが、資金等の問題があり1997年に鉄塔を、2006年には建物の解体が行われました。貴重な産業遺産ということで建物解体時には高周波発電機の分解調査を実施し、2007年には刈谷市の尽力により「依佐美送信所記念館」が開館しました。
IEEE日本支部をはじめ多方面の関係者の要望により、2007年にはIEEEのマイルストーンへの申請が試みられ、IEEEの歴史センター所長の来日訪問が実現しました。高周波発電機をはじめ各種機械類をそのままにした静態保存などへの高い評価により、2008年11月にわが国9番目のIEEEマイルストーンに認定され、翌年5月に認定銘板の贈呈式が行われたのです。
現在、依佐美送信所は、IEEEマイルストーンの他に、機械遺産(日本機械学会2007年)、未来技術遺産(国立科学博物館2008年)、近代化産業遺産(経済産業省2009年)など多くの機関から認定を受けています。