依佐美送信所

愛知県刈谷市(旧:碧海郡依佐美村)の依佐美送信所は日本初の対ヨーロッパ無線通信施設として、IEEEよりマイルストーンに認定されました。

依佐美送信所とは?

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鉄塔、監視室

 依佐美送信所は高周波発電機など非常に高性能な設備の数々に加え、独特のデザインの建物、そして当時としては「東洋一」とうたわれた高さ250mの鉄塔8本が依佐美の大地にそびえ立っていました。ここからヨーロッパに向けて電波(情報)が送られたのです。

鉄塔

 鉄塔が高さ250mとなった理由として、ヨーロッパとの交信のためにはこの高さのアンテナが欠かせなったからです。当時、長波の通信能力には12万メーターアンペア以上が必要で、送信機の能力とアンテナ線の電流の数値からすると、アンテナ実効高200m以上が求められ、それを支えるには250mの鉄塔が必要でした。

メーターアンペア=アンテナ実効高(m)×アンテナの電流(A)

 本館着工翌年の1928年1月から始まった8本の鉄塔建設は大倉土木(現大成建設)が担当し、設計は楠仙之助(日本無線電信技師)が、製造は石川島造船所(現IHI)が行いました。半年後の6月に完成し、すぐにアンテナの取り付けへ。目のくらむような高さに竹かごに乗った作業員が8本の鉄塔にアンテナ線を架けていったのです。この作業員は、1921年(大正10年)完成の福島県の原ノ町無線送信所建設に携わった人達ばかりでした。(写真1鉄塔、図面=鉄塔断面図)

 鉄塔は1辺3mの正三角形の断面を持ち、頂上部までに6段3方向の支線(ワイヤーロープ)で支えられていました。特筆すべきは、鉄塔250トンと支線150トン、計400トンを支える台座部で、地上と鉄塔の絶縁をするため4個一組の円筒状碍子を4組3箇所に配置し、テレフンケン社の要請であったドイツ製ではなく松風製作所製の国産碍子が使用された。(写真2台座部)


写真1鉄塔、図面=鉄塔断面図


写真2台座部

アンテナ

8本の鉄塔は480m間隔で4本が2列に並び、列の間は500m。総計長さ1440m、幅500mの敷地上空にアンテナ線が張られました。逆L字型と呼ばれるアンテナ線を8条ずつ2列、16条にし4本の吊り架線で展張しされていた。鉄塔の立つ敷地内(長さ1760m×幅880m)の地中にはアース線が網の目のように張り巡らされました。(平面図、写真)

地元の話題になった鉄塔

 当時250mという高さの鉄塔は日本はもちろん世界にもそれほど多くなく、地元依佐美では大きな話題となりました。この塔の高さが抜かれるのは戦後1958年(昭和33年)に完成した東京タワーで、それまで日本一の高さを維持していたのです。依佐美送信所は対ヨーロッパ無線所として話題を集め、小学校の校歌にも歌われ、絵はがきも発行されました。

 鉄塔は岩津(岡崎)、田原(渥美)からも遠望することができたといい、「依佐美の無線塔」として親しまれていました。1939年(昭和14年)には短波無線局もでき、そのための無線塔が次々と完成。総計100本余りの数多くのアンテナが並び壮観な景色を作り出していたようです。(絵はがき写真)

監視室、制御盤

 運転制御をするための監視室は、高周波発電機などの設備に隣接して配置されていました。監視室正面には現用と予備用の両機に対応した制御盤が設置され、計器監視及び通信機器の制御はここで操作できるようになっていましたが、高周波出力の電流計は高電圧の所に設置されていたため、ここからオペラグラスで数値を読みとっていました。この他に、配電盤、受電盤など数多くの制御機器類が並び、信号を送るキーイングリレー機などもありました。