依佐美送信所

愛知県刈谷市(旧:碧海郡依佐美村)の依佐美送信所は日本初の対ヨーロッパ無線通信施設として、IEEEよりマイルストーンに認定されました。

依佐美送信所の歴史

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通信の歴史

 ある出来事を知る、あるいは自分の思いを相手に伝えるなどの「情報通信」は、人類の誕生と同時に始まったといわれています。しかも、いつの時代にあっても情報をいかに早く届けるかに努力し、そのためにさまざまな手段が発明されてきました。

王の威光や戦争のための通信

 古代、王の命令の伝達や戦いの情報などのやりとりで活躍したのが狼煙(のろし)です。ギリシャ、中国はもちろん、わが国でもすでに弥生時代に海岸沿いの高台に狼煙台が設けられ、外洋からの侵入者の情報を統治者に伝えたようです。ローマ帝国、モンゴル、インカ帝国など巨大帝国の出現で、人や馬を利用した伝令による中継点を経由した情報伝達が発展しました。各地に道路網を建設できる強い統治力、経済力があったから実現できたわけで、この道路網こそが現在でいう通信回路の役割を担っていました。

 わが国でも鎌倉時代より飛脚制度が現れ始め、江戸時代には江戸、京都を早ければ3日で書状を届けたそうです。それよりも早い情報を求めたのが大阪堂島の米相場で、手旗による通信は大阪から和歌山まで3分、京都まで4分で相場情報を伝達し、これは20世紀初めまで機能していました。

電気の時代の通信

 18世紀後半から19世紀にかけて発見、発明が続いたのが「電気」で、そこに磁界といわれる「磁気」を発生させることがファラディー(英)によって発見されました。電流、電磁波、電波といった分野の研究とそれに対応した製品の実用化が図られていくわけで、画期的であったのは1844年にアメリカのモールスが、ワシントンとボルティモア間60kmを有線による電気信号の通信(モール信号)を行ったことです。

 以降、大西洋横断線(1858年)に始まり、南北アメリカ、アジア、アフリカなどに電信線が張り巡らされ、20世紀初頭にはその60%を大英帝国が占めていました。わが国でも1869年(明治2年)に東京、横浜間が開通し1874年に東京、青森間が、そして数年後には北海道から九州までの列島縦断ルートが完成しました。

 有線の通信に音声を乗せるのを試みたのがベル(米)で、1876年に電話の特許を得ています。一方、有線電信では船舶などとの通信ができないため、無線通信の研究が盛んに行われ、1895年にイタリアのマルコーニが無線通信に成功。1903年(明治36年)にわが国の海軍軍艦に搭載され日露戦争を勝利に導きました。無線電話の研究も進歩し1906年にカナダのフェッセンデンが無線通信局の高周波発電機から、洋上の船舶に音声を流す実験を行い、それを聞いた通信士は非常に驚いたといいます。そしてラジオの発明、無線電話の普及へとつながっていきます。

劇的に変化しつつある通信の時代

 ここ依佐美送信所が誕生したのも、こうした「通信の大変革期」の時代でした。やがてラジオがわが国でも普及(1937年=昭和12年)し、その少し前からは電波で動画情報を伝えるテレビの研究がスタート。1928年に高柳健次郎氏のテレビ実験成功、1926年の八木アンテナの発明など、一時は世界をリードするテレビ技術を有していました。

 戦後、1955年にテレビ放送開始直後の受信機は1500台でしたが、経済成長とともに爆発的に増加していきました。テレビのカラー化、ラジオのFM放送など次々と技術が発展しました。現在の通信の主流は、携帯電話でありインターネットです。短時間に普及したこれらの技術や製品が今後、どのような姿に変化し、我々の生活をどう変えていくのか、ネットワーク社会の今後が楽しみですが、その進化の流れの中に「依佐美送信所」があったことは記憶にとどめておきたい事柄です。

4時間が15分に!依佐美通信所とヨーロッパ

 1929年4月に、依佐美通信所はポーランドのワルシャワに向けて双方通信による送信業務を開始。発信電文は名古屋無線電信局から陸上の連絡線を通り依佐美へ、受信電文は四日市の海蔵受信所へ、というシステムでした。それまでの海底電線により4時間ほど要したものが、たった15分に短縮されかつ正確になりました。やがてベルリン、ロンドン、パリへの交信を開始し、ロンドン軍縮会議、スイスでの国際連盟会議などでの情報のやりとりに活躍したのです。

出典:
・情報と通信の文化史(星名定雄著 法政大学出版2006年発行)
・通信の仕組み(新星出版社 2008年発行)
・通信の歴史(鬼塚史郎著 東京図書出版会 2007年発行)